よもやこの年になって絵本を手にするなど思ってもみなかったし、まさか童話ごときにここまで涙をこぼすなど。



「コタローって、ただの犬やんか」

怪訝そうに問い返す私に、彼女は柔らかく笑ってみせた。
「そ。でも、うちが好きなのはコタローやねん。コタローがうちの彼氏。」

赤い首輪に付いたネームプレートには、整った彼女の字で『小太郎』と書いてあって、意味がわからないで眉を寄せる私に小太郎が尾を振りながら あぐ! と吠えた。
キスをしたら人間になるんだあと言って小太郎の頬を挟むように撫でる彼女は、それでも愛おしかった。



うっかり落としてしまった涙のせいで、私は要りもしない絵本を購入しなければいけなくなってしまった。
ふやけたページには魔法で獣に変えられてしまった王子にキスをする姫の絵が描かれていて、気が狂いそうなほどの怒りがわたしの底から涙を押し出したのだ。

中林虎太郎。 あとから知った、それが彼女のあいする人の名前。
笑い転げそうになりながら必死でコタローの腕にしがみつく彼女の後姿を、私は愛した。
ほんとうはきっと、彼女が犬で、忠実な彼女の鎖を引くのはコタローなのだ。
叶うなど思ってもなかったけれど、それでも恋を失うのは苦しい。







(出来ることならあの匂いや仕草や艶やかな黒い髪を、白い肌を、まあるい乳房を、なだらかな腰を、すべて丁寧に撫で回して。 隅々まで私のものに?)







それからと言うもの、夜はひどく長くなり、私は彼女の姿を鮮明にまぶたの裏に描いて、ざわつく肌を鎮めるようにして眠りについている。







お わ り 。