「あたし、もう行かなきゃ」


そう言ってぼくの肩に手をかけるから、いやいやをするように、正座して座ったニエちゃんの膝にすがりついて首を振った。

行かないで、行かないでニエちゃん

昔飼ってた犬の小屋のまわりに去年ぼくとニエちゃんとで植えた花がもうそろそろ咲きそうだし、味気ないほどに白くて細かったニエちゃんのきれいな左手に指輪がついた頃から、ぼくはずっとずっと怖くて仕方なかった。


「行かないでニエちゃん」
ニ エ ち ゃ ん の 庭 、



こないだだってそうだ。
夜遅くに帰ってきたニエちゃんは、玄関先で自分をここまで送り届けてくれた茶色い服の男のひとにキスをしてお礼を言っていた。
あの次の日ぼくはなんだか寂しくて、ほんとうはニエちゃんとキスがしたかったけど出来ないから、幼稚園のサクラちゃんにキスをしたらサクラちゃんは喜んでくれて何度もキスしたけど、でもぼくはやっぱりニエちゃんじゃなきゃだめだと思ったんだ。


「ぼく、ニエちゃんがすき」


ニエちゃんはぼくの髪をなでてくれて、うっかり寝てしまいそうになった。
きっと多分、ここで寝てしまったら、ニエちゃんは帰って来なくなる。
ぼくのニエちゃんは、帰って来なくなるんだと思った。

四月から小学館に通うんだ、ね、もう少し待ってもう少し  ぼく、おとなになるよ

何をどれだけ何度言ったかあまり覚えてないけど、途中ニエちゃんが


「もうすぐ桜が咲きそうだね」


と言ったことだけ覚えている。

ニエちゃんちの縁側から浴びる陽はあったかくて、いつもここで膝枕してもらって寝るのが大好きだった。
ニエちゃん すきだよ きっとぼくの方が茶色の服の人よりよっぽどニエちゃんのことをすきだよ

目を細めて、必死で必死でニエちゃんのスカートを握って離さなかったけど、日が暮れて、子どものぼくは家へ強制的に送還された。




こないだまでの大雨がうそみたいに晴れた六月、あの庭に咲いた花よりもっと鮮やかなニエちゃんが、ぼくのものじゃなくなった。